日本人の「自分たちは違う」という感覚について考える

2018年7月、西日本には大雨による被害、全国的に連日の猛暑による熱中症など、いろいろな問題が発生している。

しかし避難指示が出ていながら避難していなかったり、これほど熱中症が取り上げられているのに、行事などを予定通り実行して問題が発生しているのが続いている。

「一体、なぜだろうか?」

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個人的な結論とし、結局誰もが「自分たちは違う」と考えているためではないだろうか?

まず災害にしても、他人に対しては「なぜ避難しない!」と疑問に思いながら、自分が同じ立場に立つと「今までが大丈夫だったから」とか、「この地域は他の地域と違う」などの自分に都合の良い解釈をしてしまう。
その結果、初動が遅れて人命に関わる被害を出してしまう。

熱中症なども連日取り上げられているのに、行事が中止になった事例は少ない。流石に最近は世間体を気にして中止にしている所もあるが、何年も続いているスポーツまでは波及していない。
特に顕著なのが「夏の高校野球」になる。主催する新聞社は各行事による被害を非難しながら、自分たちが主催する物には手を付けていない。これなどは「長年続いているものだから」とか、「中止にすると関係者や球児に影響が大きい」などが理由になるだろう。
しかしこれが他の組織に対しては、「関係者と人命のどちらが大事なのか!?」となる。全く、立場変われば何とやらである。

このような状況の中で、祇園祭の花傘巡行が猛暑のために中止になったのは、驚きをもってみていた。関係者の長い努力と利益を考えた時には、相当な決断と強い反発があったことは予想される。
「これが正解か?」と問われたら難しいが、「少なくとも間違いではない」と考える。

ここで現在の猛暑からは外れるが、企業における長時間労働も同じこと。企業側に無理やり働かされている人もいるが、それ以上に自分たちの意志で働いている人が多いのも事実だ。
「人手が少ないから」とか「自分たちの企業や業種は違うから」と、積極的では無いまでも受け入れている人が多いのも事実だ。
こう書いている私自身も、その感覚を持っていた。「人は人、自分は自分」と完全に割り切っていた。100hを超える残業も、むしろ普通だと感じていた。しかし一度離れてしまうと、いかに異常だったかがよく分かる。

「自分たちは違う」などという世界は、本来存在しない。

しかし多くの人が「何か違う!」と感じている。なぜ、変わることが出来ないのだろうか?

結局は「変わることの利点」より、「変わらないことの安心感」を優先しているだけである。変わるのは大変です。どんなに良い方法でも「変わる」というだけで、確実に問題は発生します。特に変わることにより、自分の「利点」が失われる人の反発は大きい。
そのため、誰も何も言えなくなる...

「ではなぜこの問題が、日本人に顕著に出てしまうのだろうか?」

それは日本が調整型の社会であり、横並びを良しとする考え方のためになる。何かするにはみんなの合意を必要とする社会では、思い切ったことは出来ない。
「合議制では戦争に勝てない」と言われている。これは戦争のように即時対応が必要な戦いにおいて、みんなで話し合っていては間に合わないためだ。また結果が平凡になりがちになる点も挙げられる。
長所・短所はあるのだが、緊急時には強力なリーダーシップが好ましくなる。

何かまとまりのないものになってしまったが、結論としては「全てが変わる時期に来ている」ということだ。伝統や決まりは大切なこともあるが、それだけが大切では無いのも事実だ。

「現在の常識を全て見直して、ゼロから見直す時期になっている」

と言いながら、結局「議論が必要」という流れになって、それぞれが自分の利益を主張して、右往左往するのが目に見えるようですけどね...

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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