東京・青梅市教委が「いじめ認定」を公表しなかった件を考える

2015年に東京青梅市で当時中学1年の男子生徒が自殺した件で、いじめの有無が問題になっていた。

当初はいじめは無かったと報告していたが、実際は「生徒に対するいじめがあった」ことを当時から認識していることが分かった。

元ネタはこちら

→「いじめ認定」東京・青梅市教委が公表せず 中1男子の転落死で

今回はこの件について考えていく。

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感想と考察

まったくトンデモナイですね。

当時12歳の少年が自殺するほど苦しんでいたのに、自分たちは保身のため隠蔽していた。

これだけを見ると、「何のための学校であり、また教育委員会なのか?」と感じます。

しかしこの手の隠蔽は、相変わらず後を絶たない状態です。「一体、なぜでしょうか?」

もちろん、この答えは簡単です。「隠蔽したほうが楽であり、被害が少ないから」

いじめ問題は社会問題に発展し、多くの人の非難を浴びます。

「ただ自殺した」のと、「いじめを苦に自殺した」では全然違うものになります。

しかし「いじめで一番悪いのは誰でしょうか?」

言うまでもなく、「いじめた人」です。

しかしいじめられた人が自殺してしまうと、悪いのは「学校や先生」という見方が主流になります。

しかし「もし自分が先生なら?」と考えた場合、いじめ問題を解消するのは難しい。

例えば、親が子供の兄弟喧嘩を解決するのも、かなり難しい。血を分けた子供であり、たかだか数人のこどもですら困難なのです。

そこから考えると学校でしか会わない生徒のいじめを見つけて、そして解決するのは至難の技と言うことが分かります。

またいじめ自体が起こることは、学校でも先生の責任でもありません。

しかし現状では「学校や先生の責任」という見方が主流になっています。

「そのために学校や市教委はいじめを隠したくなる」という現実が伺える。

ここから本当にいじめを無くすためには、「学校や市教委がいじめを公表しやすい社会」に変えることが必要だと考えている。

まとめ

何度も書いていることだが、世間はいじめ自体に関して学校を責めすぎている。

いじめ自体があることを問題にしすぎている。

残念ながらいじめは無くならないのだから、それを前提にした対策を考えなければいけない。

いじめ自体を公表しやすい社会にし、その責任を学校や先生に押し付けてはいけない。

その問題は全員で責任を感じて、解決していく姿勢が必要になる。

改めて言うが、責任の全ては「いじめている人」にある。

学校や先生と言うのは、善意の立場に過ぎない。

非難するばかりではなく、協力していける社会になることを期待している。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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