神戸・中3女子がいじめで自殺した件のメモが隠蔽されていた対策を考える

2016年10月、神戸市立の中3女子がいじめにより自殺した。

当時の聞き取りメモは存在したが、校長はメモは存在しないとして隠蔽していた。

元ネタはこちら

→校長「メモ存在しない」、教職員に口止め…自殺

今回はこの件について考えていく。

感想と考察

まず個人的に結論を書いておくと、「指示した市教委幹部や校長のしたことは許せない」

自分の立場を優先して、被害者を軽視したのですから当然です。

ただこのように隠蔽した校長を非難するのは簡単だが、それだけでいいのだろうか?

物事の本質的な問題は、そこなのだろうか?

今回はその点を個別に考えていく。

一番悪いのは?

まず問題の核心的なことですが、今回の件で一番悪いのは誰でしょうか?

隠蔽を指示した市教委幹部でしょうか?

メモの存在を無かったものとして、教職員らに指示した校長でしょうか?

私の考えではどちらも異なります。一番悪いのは、「いじめた人」です。

問題の本質を考える時、この点を忘れてはいけない。

もし隠蔽しなかったら?

次に「もし隠蔽が無かったら?」と考えてみる。

もし隠蔽がなかったら、世間は学校関係者を非難しなかっただろうか?

これは間違いなく、かなり強い感じで非難しますよね。

「生徒が気づくほどのいじめがあったのに、気づかなかったのか?」

「なぜいじめを知っていながら、対策を打てなかったのか?」

など想像も含めた、ありとあらゆる非難が起こったでしょう。

もちろん、だからといって隠蔽して良い訳ではない。

しかし政治家や教師はもちろん、一般的な会社員や学生でも、自分の所属する組織が非難されることを公にはしないだろう。

こんなことを書くと、最近話題の「日大の学生」を取り上げて比較するかもしれない。

しかしこの学生と今回の隠蔽は、まったく別の事柄になる。

批判を承知で書くと、「今回の学生の会見は、自分にとってプラスになっている」

極端に言えば、「加害者が被害者家族に向けて、刑が軽くなるように手紙を書く」と変わらない。本当のことを話すと自分が助かるなら、話して当然と考えることも出来る。

結局、隠蔽してもしなくても、非難されることには変わりない。

まとめ

勘違いしてほしくないのは、「隠蔽をよし」としている訳ではない。

今回の校長がトンデモナイのは、間違いのない事実です。

しかしどちらも悪いなら、可能性に賭けたいのは人として不思議ではありません。

まして途中にも書いていますが、いじめの責任はいじめた人にあるのに、非難や対応は学校の問題になってしまいます。

これって見方を変えれば、学校も被害者です。

そのため個人的には、次のようになることを希望している。

いじめ自体はいじめた人の問題であり、学校や教師が悪い訳ではない。

そのため、いじめを見つけることはプラス評価とする。

世間的にも、見つけた教師や学校をプラス評価で応援する。

そして情報が追加されるのもプラスで評価し、いじめを解消したらさらにプラスとする。

万が一、今回のように自殺まで発展しても、その責任の全ては「いじめた人」とする。

学校や教師は再発防止策を考えることに、全ての力を費やすことにする。

少し極端な思想かもしれないが、これぐらいでないと教師などやってられない。

いじめの対策はしないといけないのに、いじめがあったことでマイナス評価になる。

ハッキリ言えば、マイナス評価になるのに誰がいじめを報告するでしょうか?

どれだけ教師の善意に頼っているのでしょうか?

親ですら対策が出来ないことを、教師に何を求めているのでしょうか?

今回の隠蔽は市教委幹部や校長の問題です。

しかしいじめ問題を解消するために必要なのは、世間の対応かもしれない。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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