高野山の僧侶がうつ病で労災認定された件は違和感を感じる

2018年5月17日、高野山の40代男性僧侶が、うつ病による労災認定を受けているのが分かった。

提訴したのは2016年4月27になる。

元ネタはこちら

→高野山の僧侶に労災認定 64日間連続勤務、うつ病に

今回はこの件について考えていく。

感想と考察

今回の件についてだが、うつ病になった人には同情するが、「労災認定」されたことについては違和感を感じている。

そもそも僧侶の行いは「労働」なのだろうか?

たしかに宿坊のフロント係をしていたとしたら仕事に似ているが、個人的な感覚で言えば労働とは捉えていない。

僧侶である以上、全ての行いは「修行」ではないのだろうか?

その修業に制限を加えることは正しいのだろうか?

もしこれが宿坊の仕事をしていても、協力している一般人なら話は別。

しかし今回は「僧侶」となっている。

そのためどうしても、「労災認定」はおかしいのでは?

ただ勘違いして欲しくないのは、「このうつ病になった人に何もする必要がない」と言っている訳ではない。

僧侶としてうつ病になったのだから、「寺院自体が面倒を見るべきではないか?」と主張している。

今回連続勤務が問題になっているが、そもそも僧侶に休みという概念があるのか?

病気や用事は別にして、休みなど無いのが僧侶だと考えている。

また勤務時間も問題視しているが、そもそも僧侶とは「8時間勤務」なのですか?

普通の職業と同列に並べるのは、違和感しか感じない。

まとめ

今回の記事を読んで「僧侶でもうつ病になるのか?」、と驚いている人もいるかもしれない。

しかし個人的には「僧侶がうつ病になるなんて当たり前」、と考えている。

もちろん私は専門外だが、以前読んだ本に次のようなことが書かれていた。

(記憶のイメージだけで書いていくので、細かい表現は気にしないでください)

僧侶の世界は上下関係がハッキリしている。そのためパワハラは当たり前。

相手に考えさせるために、わざと強く怒ったりする。

また理不尽と思えるようなことを指示したりする。

そのためうつ病的な感覚になる人は多いが、それを乗り越えるのが修行となる。

うつ病が大変なのは理解している。

しかし僧侶という道を選んだ以上、「労働」ではなく「修行」ではないだろうか?

少なくともそのように考えている人に、僧侶になって欲しいと考えている。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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