立憲枝野代表の「国民が怒らず誰が怒るのか」発言について考える

4月24日に立憲民主党の枝野代表が、JR新橋駅前にて街頭演説を行った。

その時に「国民が怒らず誰が怒るのか」という発言をしている。

元ネタはこちら

→立憲枝野代表が訴え「国民が怒らず誰が怒るのか」

今回はこの件について考えていく。

発言は適当か?

私はこの演説を聞いていた訳ではないので、この記事に書いていることが全てとなる。

また記事には、これ以外の発言も書いているので、細かいことはそちらを見て欲しい。

その状況において考えると、「何点か問題がある」

その点を個別に考えていく。

なぜ演説が出来る?

まず発言以前に、これが一番問題です。

「なぜ国会という正式な場に出席せず、街頭演説などしている!」

民主国家である以上、国に関する決定を行うのは国会です。

そこに出席し発言する権利を有しながら、行使せず自分たちに都合の良い演説をしている。

会社員がストをしているのとは根本的に異なる。

本業を休んでいる人の発言を聞く気にはなれない。

国民は怒らないといけないのか?

場合によっては軽く流してしまいそうだが、これは重大発言です。

まず「国民に怒れ」とは何でしょうか?

国民がしないといけないのは、冷静に今後を見つめた判断です。

怒りという感情から生み出される結論が、正しいことは少ない。

周りが見えなくなり、また可能性が一つしかないと勘違いしてしまうことが多い。

また「安倍政権」と名指しをしている所から、これを「扇動」と言います。

特定の人や組織に対して「怒り」を強要するなど、とても許せることではありません。

辻元国対委員長の発言について

安倍首相のことを、「膿」もしくは「膿の親」と発言しています。

記事では「皮肉った」と書いていますが、これは明らかに個人攻撃であり、暴言です。

「反対に言われた時にどのように感じるか?」を考えた時、猛烈な反論があることでしょう。

自分は良くて、相手はダメという発想は、とても公人として許されるものではありません。

「野党が行政を監視」発言について

枝野氏の発言として、記事には次のように書かれています。

「野党が行政を監視しなければ、まっとうな政治はできない」

この言葉の意味の重さを、理解出来ているのだろうか?

「自分たちは与党になるつもりはない!」と言っているのと同じになる。

第一野党の代表なら、「私たちにまかしてくれれば、政治は良くなる」と言って欲しい。

そして良くなる方法を示して欲しい。

安倍政権を打倒した後、自分たちが変わるとは考えていない人達など、支持することは難しい。

まとめ

改めて書きますが、第一野党の代表が語らないといけないのは、日本を良くする方法です。

そのためには自分たちの政策を国民に提案し、それに対して支持をもらうことです。

その結果、与党として国を良くすることが出来ます。

それが民主主義の基本的な考え方になります。

政治にはいろいろな考え方があります。

「長期政権は好ましい」という考え方。

「長期政権になると腐敗が広がる」という考え方。

「短期政権ばかりだと、安定した政策を行えない」という考え方。

また作家の塩野七生氏が「日本人へ~リーダー篇~」の初めに次のように書いています。

「危機の時代は、指導者が頻繁に変わる。
首をすげ代えれば、危機も打開できるかと、人々は夢見るのであろうか。
だがこれは、夢であって、現実ではない」

もちろん、これが正しいという保証はない。

しかし「怒り」を持って変えるは、少し違うと考えている。

「冷静な判断」により変えるのが好ましいと考えたなら、変えるという選択を行いたい。

その結果については、判断した国民が背負わないと行けない。

ダメだったとしても悲観せず、継続して判断していかないといけない。

それが回り道と感じたとしても、民主主義の最低限のルールになります。

それと野党とは反対勢力ではなく、対立勢力であることを忘れてはいけない。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

スポンサーリンク
wp_336x280R
wp_336x280R
関連記事&スポンサーリンク

関連記事&スポンサーリンク